『誰も知らない』

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ひさしぶりにブログを書こうと思ったら、新しいブログができちゃった。

 

リハビリも込めて、1日で感じたことや、テキストにして出したいと思ったことをまずは短時間で書いてみる。

※書くこと自体は嫌いじゃない。ただ、時間をかけて書いてしまう癖があるので、それは継続的な執筆につながらない

 

 

■『誰も知らない』

例にもれず、コロナ禍でアマプラをよく視聴している。

 

ザ・ファブル」を見たあとの深夜のノリで、ずっと気になっていた『誰も知らない』をみた。

見始めた時点で深夜1時を過ぎていた。

 

 

観ている途中、完全に素人の発言になるが、「この視聴感覚は『万引き家族』みたいだなあ」。当たり前だ。

でも、この子どもの起点に立った心の揺れ動きや大人の存在感の書き方、自分に残った子どもとしての「ああ…なんて健気で辛くて、でも自分にはどうしようもないのか」と心のノドに小骨を刺されるような感覚はやはり同じくあった。

 

いろいろ語られているであろうけど、

「誰も知らない」のは、誰で、なにで、なんのことなのだろうか、と。

 

映画の冒頭から、長男だけと近所の人とあいさつをするほか3人の子どもの存在。

「お母さんは仕事で外に出ています」という民事の「殻」に守られ外からは強く介入できない、その生活実態。

「警察や児童相談所に言ったほうがいい」とコンビニの子が言ったとき「4人で暮らせなくなる。むかし、そうなったら難しかった」というニュアンスも語られている。その経緯や家族の「形」は周りからは誰も知ることができない。

構図で語られることが多かったように思えるのだが、子どもたちで遊び、悪さをし、なにかものごとが起きているときにも周りの大人たちは風景であり、誰も知ることはないし、知ろうとも思わない。

子どもやお母さん、周りの子どもたちも含めて、彼ら・彼女らがどんな気持ちでいるのか、どうしたいのか、どうすればよかったのか?それを誰も知ろうとすることはないし、彼ら・彼女らも知ってもらおうとすることはない。

 

「誰も知らない」

誰も知らないからこそ生まれたのが、あの子どもたちの世界だし、ベランダの雑草が長く伸びるようにその世界が定着されていく。

「知る」と「している」の間には、「意識」がある。

 

世にある不条理を、日本社会は制度と富でなくしてきた。

これは本当に日本社会の大きな成果だ。

しかしながら、「子どもたちの世界」や「親と子どもだけの世界」はちょっとしたすれ違いですぐ生まれてしまう。

その状況を誰かが知ることで、「そういう世界があるんだ」ということを知っていて、1つでもできることはないかと意識することで、世界を変えていけることがあるのだと信じたい。

自分が恵まれた世界にいることを、どう社会に還元していけるか。

 

―――

 

また、自分がドキュメンタリーを創りたいということを学生時分に考えていたことを思い出させてくれた。

なにかを残したい、伝えたい。それをいまの時代は、肯定してくれているんだろう。

 

(執筆:35分)